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宮田町(現宮若市)史(上)グラビア
「磯光神社御縁起付録並書」の絵図より
犬鳴川を読む


寄稿:澤田憲孝氏(宮田町芹田) 編集:本HP担当
 
 宮田町史(上)をお開けください。カラーのグラビア3ページから7ページにかけて、「磯光神社御縁起付録並書」の図が10枚の縮小版があります。この絵図は、江戸終期に近い天保8年(1837年)の作で、「笠置山より八木山川を経て犬鳴川に至り、四季を表す」図と説明があります。
 当時の犬鳴川流域の様相を見るには、1600年代幕府に差し出された絵図に犬鳴川を含む遠賀川流域の絵図が有りますが、これも河川の大略等を絵図化したもので、犬鳴川そのものの状況はわかりません。今のところこの「磯光神社御縁起付録並書」の絵図が犬鳴川の状況が読みとれる最も古い絵図ではなかろうかと思います。そこでその絵図について私なり解釈を試みました。
 ここでは10枚のすべてを提示していませんが町史グラビアを宮田中央公民館図書室などでご覧ください。それらの絵図から1800年頃の犬鳴川の状況ですが、当時の江戸時代の風水害の多発、飢饉の連続したため、1700年代以降あまり社会的状況は進展していませんので、1700年代の河川状況と同様に見てよいものと考えます。
 それを前提にしてこの絵図を見ますと、犬鳴川は全体的に自然堤防であり、それも洪水を防ぐような頑丈なものでなかったという事がいえます。よって自然堤防なので、洪水の時、田畑は遊水池の状況と推察できます。
 天照宮は洪水に会わないようにするため一段と高
NO.9
天照宮が中央に見えます。四角に囲った部分を拡大すると人物と川舟がくっきりとわかります。
い所にあります。農民の住宅の一部は河川側に見えますが、多くは河川より離れた小高い所に有ったと考えています。
 珍しいのは、川船の様子が描かれていることです。N09の絵図には3捜の舟が描かれています。大きさは長さ5〜6m程度、幅1m強の感じで、竿で漕いでいる状態です。
 N010の絵図には一艘の渡し船の絵図があります。両岸に紐を渡し、その紐をたぐりつつ対岸との間を行き来した様子がわかります。両岸に人らしい姿が見えます。この絵図の所ではありませんが、この絵図のように両岸にロープを渡し、舟で両岸を行き来したのが現在の交通公園下流の「繰舟橋」の所です。
 聞き取り調査でわかったことですが、驚くことにここ繰舟橋付近で、昭和初期まで絵図のように小舟で若宮の原田と宮田の板深との間を行き来していました。小石づたいにも、渡ることもできたそうです。
 さらにそのような小舟で行き来する他の例ですが、若宮の現在の若宮大橋の所では大橋が出来る以前は両岸の間を、筏を組み橋代わりとし、大水の時はその筏を流されないように片方の岸にたぐり寄せていたとのことです。明治33年の地形図を見ます
NO.10
上図の四角の部分を拡大すると、下図のように両岸にロープを渡し、それを引っ張って行き来している様子が分かります。
と、すでに犬鳴川の重要な所は木の橋で往復できたようですが、それ以外は江戸時代と大差ない状況だったようです。興味深いことだと思いませんか。
 その橋などの重要箇所は「4−1福岡県地理全誌抜き書き」に村ごとにその数を記載しています。記載年代は江戸末期、明治初期の状況です。
 なお、ちなみに調べたことですが、犬鳴川に架かる各橋の一番最初の築造年代の記録は役場には有りませんでした。あるのは、現在の橋の其れそれぞれの改修築造年代だけです。次の改修の為の資料として記録されていました。堤も改修年代の記録しか有りません。江戸時代等の築造年代の記録は殆どありません。よって、こうして絵図などで過去の生活の様子を探っていくと先祖の人々の暮らしが思われて更に探究心が高まっていきます。
 みなさん共に郷土の歴史を探っていきましょう。
 

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