ふるさとみやわか 1






  ごあいさつ    代表 小方 良臣

 「過去から流れるもののなかに、未来への道しるべがある」(工藤瀞也著『筑豊炭田に生きた人々』より引用)
 私たちが現在生きているのは、過去からの歴史の流れのなかであり、また未来への橋渡しを担っているものであります。それぞれの地域の歴史や風土の中で私たちは生活し、先祖の人々の知恵や技術、つくりあげた文化自然などの恩恵を受けているのです。自然と共有しながら、稔り多い農業生産技術や農業用水路などの土木技術。日本のエネルギーを担ってきた、石炭産業の歴史。村々に残るお祭りや、民俗芸能、風土にあった食文化など、宮若には素晴らしい歴史や文化が、地域に路傍に山々田畑や川に、それぞれのお家に多く残っています。そうした宮若の歴史・文化・民俗・自然などを発信するために「ふるさとみやわかの会」を発足しました。
 宮若市はすでに『宮田町誌』『若宮町誌』が発刊され、宮若市のある程度の歴史を知ることができます。しかし、両町誌とも膨大な史料の中で町誌に使われたものはほんの一部で、まだ多くの史料が公共機関に保存されています。さらに町誌編纂後に発見されたもの、または地域やお家に残っている未発見の史料も多くあると思われます。
 宮若の歴史や文化自然を、それぞれの方々に書いていただき、発信していこうと思います。どうか地元の情報「うちの近くにこんなもんがあるよ」などを教えていただき、またはこの会報に投稿していただければ幸いに存じます。お待ちしております。


  貝島太助の物語 

               福田 康生 
  序 文

 私は、「犬鳴築城事件始末(加藤司書の物語)」では、疾風怒濤の幕末の物語を、そして「秋月擾乱」では、明治十年までの激動と混乱を書いた。
(さて、次に何を書くか)
 と、迷っていたら、
(今はもう忘れ去られているようであるが、私が生まれ育ったこの宮田町には、かつて貝島炭坑という最盛期には従業員数一万人を越えた日本有数の大企業があったではないか。その貝島炭坑は、貝島太助という一介の坑夫が、世の嘲りと身の恥とを忍びながら、悪戦苦闘の末に起業したものであった)
 と、いうことに思い至った。
 疾風怒濤の幕末の動乱を乗り越え、佐賀の乱にはじまり、神風連・秋月・萩の乱、そして西南戦争を最後に激動と混乱の十年を無事切り抜けた明治新政府は、
(さあ、これからは国家の総力を結集し、富国強兵・殖産興業に励み、西欧列強に追いつき追い越すぞ)
 という、ペリー来航以来の大目的である日本の近代化、つまり富国(資本主義化)・強兵(近代的軍事力の創設)に邁進することになった。
 その近代化の過程で筑豊の石炭はもっとも大きな役割を果たし、またそれらを地の底から支えたのが筑豊の石炭であったのである。 


  そもそも、筑豊炭田のはじまりは、文明一〇年  (一四七八)に遠賀郡埴生村の樵夫五郎太夫が、焚火をしていたとき黒い石が燃えているのを見て、「燃える石」を発見したのがはじまりといわれている。
 はじめは、地表に露出した「燃える石」を農民達が必要に応じて風呂炊きや家庭燃料として使用していたようであるが、あまりに悪臭がするというので嫌われ一般にはあまり普及してはいなかった。
 大部分は若松や芦屋に運ばれ、主として塩づくりの燃料に使われていた。
 塩づくりに石炭を使うことをはじめて思いついたのは、明和年間(一七六四~一七七二)、筑前若松の和田佐平という人であった。
 佐平は、石炭を売るために、その使い道を研究した。
 佐平は、三〇歳の頃から石炭のもっと役に立つ使い道はないものかと考えるようになり、少しの量で永く燃え火力が強い石炭の使い道を研究し、塩を作るために活用したらいいではないかと思いついた。
 塩づくりは、海水を浜辺で乾かし、塩水が相当濃くなったところで釜の中に入れ、煮つめて塩ができるのであるが、煮つめるとき燃料として薪を使う。主として松の木を使うのであるが、その代金は決して安くない。
 佐平は、さっそく見本の石炭を持って中国、四国の塩田地帯に出かけて行き、製塩業者らの前で実験して見せた。
 その結果、松の木に代わって石炭を塩づくりの燃料に使うことがあっという間に流行した。
 佐平は、遠賀郡内の山元で、多くの坑夫を雇い入れ、石炭を掘り、これがあたりにあたって、黒田藩内でも指折りの豪商にのし上がった。

 ところが、財源確保に苦心していた筑前黒田藩にとっては、藩が手を付けなかった石炭を商品化して大儲けしているのが面白くなかった。
 黒田藩は、
「藩主をないがしろにした贅沢三昧、不埒である」
と、佐平を引っ捕らえ、財産も、持ち船も、炊石帳場(炭坑)も全て没収し、入牢を申し付けた。
 先覚者和田佐平は、福岡での入牢生活数年にして憤死した。
 黒田藩は、佐平の所有していた幾つかの炊石帳場を手に入れ、
(新財源ができたぞ)
 と、そのあとに家臣や子弟まで繰り出して、石炭掘りをさせたが、石炭掘りは素人にそう簡単にできるものではなかった。
 そこで、黒田藩では、石炭掘りの人夫を半強制的に各郡の庄屋に割りあて、採掘量を増やし、新財源の確保にやっきとなった。
 しかし、藩内では至る所に狸堀の坑が開けられ自由濫掘がつづけられていて、その取締まりに手を焼いた。当局は、
(何とかこのような濫掘の状態を改革しなければ、このままでは石炭も安定した財源とはならぬ)
 というのでできたのが、松本平内(筑豊の御三家といわれた安川・松本家の祖先)によって建言された仕組法であった。
 松本平内が建言した仕組法は、藩財政を再建するためのもので、石炭、鶏卵、生蝋の三物産を一括して共同販売することを目的とするものであった。
 石炭については、その取締所を遠賀郡芦屋村に置き、遠賀、鞍手二郡に一ヶ所、嘉麻、穂波二郡に一ヶ所の山元取締を置いたほか、若松港に炊き石会所の出張所を置き、その任にあたらせた。

 江戸末期、安政年間になると筑豊の石炭が、俄然注目されるようになった。
 ペリーが来航して日米和親条約(一八五六四年)、日米修好通商条約(一八五六年)を江戸幕府と結び、函館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の五港が開港され、長崎に外国の蒸気船が入港するようになって、石炭の需要が活発になったためである。
 また、黒田藩では、博多の中州に反射炉を造って製鉄をはじめたり、御用炭といって黒田長溥は参勤交代のたびごとに幕府の軍艦用の石炭を献上したりしていたから、筑豊の石炭は需要に比べて出炭が間に合わないという、そんな時代に貝島太助はこの筑豊の地に生まれ貝島炭鉱を創始したのである。

 一章

 貝島太助は、弘化元年(一八四四)一月十一日、父貝島永四郎と母タネの間に、直方の古町で生まれた。
 弘化元年といえば、欧米諸国の黒船がしきりに来航して開国を迫り、徳川二百五十年の大平の夢破られ、日本が文明開化するまさにその前夜である。
 太助の父は山本永四郎といった。
 永四郎は、穂波郡忠隈村の農家の生まれで、故あって直方に移り住み、貝島タネを娶って四男三女を儲けた。
長男が太助、次男が文兵衛、三男六太郎、四男が嘉蔵である。

 三人の姉の名は、クニ、マン、ヌイといった。マンは幼くして亡くなっている。
 栄四郎は四男三女を抱えて、冬は下境村猿田、中泉村五田ヶ浦、直方町御館山、山部村側筒谷などにあった炭坑で働き、梅雨や台風の大雨で水が坑内に入る夏は炭坑で働けないから、野菜などを売ってやっと生計を立てていた。
 父の永四郎は、太助同様に非常に体格のいい人であったが、太助が生まれて間もない頃、休憩中に小屋で居眠りをしていたところに火事に遭い、その煙を吸って胸をやられていたから体が弱く、長男の太助は早くから働かされた。
 太助は、家が貧乏なため八つの頃から父親に連れられ野菜売りに、また九つの頃には狸堀の坑内に入って父親の後向きをして家計を助けていたという十一歳にもなると、もう一人前のガラ焼き人夫に使われるようになり、賃稼ぎをしていた。(ガラというのは、粉炭を粘土に混ぜて固めて蒸し焼きにし、あまり煙が出ないように処理して家庭用の煮炊きにつかうものである)
 太助は、ガラを焼くかたわら暇があると、石炭を籠に入れ近所に売り歩いていたのでこの方でも幾ばくかを稼ぎ家計を助けていた。
 母は、タネといった。
 タネにとって、太助が働いてくれるのは助かるし嬉しいのであるが、その頃炭坑の坑夫といえば、正業からはずれたならず者や前科者ばかりであったから、

(こんままやったら、太助もいつの間にか悪の道に染まるかもしれん。なんか太助におうたいい仕事がないやろか)
 と、太助が悪の道に染まるのを心配し、十二歳の時正業に就かせようと近所に住んでいた占い師の所へ行き、
「こんまま、太助を炭坑で働かせよったら、どげな人間になるか心配でたまりまっせんたい。太助にはどげな仕事がいいでっしょうか」
 と、相談した。
すると、その占い師は
「あんたん息子の太助は、子供ながらに火がガンガン燃えちおるごと激しい気性をもっちおる。火を扱わせなっせ。鍛冶屋がよかろうたい」
 と、いった。
 太助は、遠賀郡吉田村の鍛冶屋に奉公することになった。
ところが、その鍛冶屋は、太助に仕事は教えず子守ばかりさせるので一ヶ月ほどでそこを飛び出し家に帰った。
 太助は、家に帰ってきてから重い腸チフスにかかり十四,五歳まで治らず、そのあいだ何度か死線をさまよったという。
 病が癒え、母のタネは、信心していた直方山部の雲心寺の和尚のところへ行き、
「太助に、何かいい仕事はないでっしょうか。太助ももう十五になりますき、しっかりした仕事を身につけさせなち思いよりますが……」
 と、相談すると、和尚は、
「そんならうちに奉公させなっせ。読み書きも覚えられるし、太助の後々のためになろうたい」
 といって、太助を引き受けてくれた。

 お寺の仕事も楽ではなかったが、炭坑の仕事に比べると苦にはならなかった。
 太助は、小さな頃から体を動かして働くのになれていたから、早朝の水くみ、薪割り、広い境内の掃除に畑仕事と身を粉にして働いた。
 和尚も喜び、
(太助はよう働く。見込みがあるぞ)
 と、和尚は太助に文字やお経を教えにかかったが、太助は全く文字やお経を受け付けなかった。
 太助の心の中には、
(おれは、坊さんなんかになるもんか。炭坑でひと山あてち、家族みんなに楽させちやるとがおれの仕事たい)
 という思いがあって、文字やお経を覚えようとしなかったのである。
 それでも、太助は十八の歳まで雲心寺で下男奉公をして働いていたが、父の永四郎が病気になり、家では薬代はもとより食べるものにも困っていた。それを聞いて太助は、
(こうなったら、おれが稼がんやったら、一家全員飢え死にたい)
 と、じっとしておられず、雲心寺の和尚にわけを話してすぐに家に帰り、芦屋の観音寺に下男奉公に行っていた弟の文兵衛を呼びよせ、兄弟二人で御館山の炭坑に行って働きはじめた。
(いばしゅう稼いで、いい薬をお父さんに飲ませちやろうたい)
 と、太助は必死であった。
 だが、太助ら家族の願いも空しく、永四郎の病は次第に重くなっていった。
 栄四郎が亡くなる何日か前のことである。

 タネが、
「お父さん、なんか食べたいものはないね」
 と、問うと、永四郎は、好物の蕎麦を注文した。
蕎麦ができ、太助が給仕をした。
 栄四郎は、少し蕎麦の汁を啜ったが、
「太助よい、わしは大好物の蕎麦も喰えんようになっちおる。わしの命はもうお終いやろ……」
と、いかにも苦しそうに箸を置いていい、間もなく亡くなった。
 太助は、その後も家計を助けるために炭坑で働いていた。
太助が二十歳の時、
「お前が炭坑で稼いでくれるとは有り難いことやが、お父さんも死んじしもうたし、お前に万一のことがあったらち思うと、お母さんは心配でたまらんたい。炭坑を止めちもらうわけにはいかんやろか」
 と、タネが、炭坑の危険なことをあまりに心配するので、
「おれは、炭坑で一旗あげようち思うちおったが、お母さんがそげん心配するとやったら仕方がない。いいばい、仕事を変えようたい」
 と、一度は炭坑をやめて直方の呉服や綿類を商っていた谷弥平のところで、綿打ち職人となった。
太助は、三年ほど綿打ち職人をしていた。
 だが、寝ても覚めても思うのは、石炭で一山当てることばかりであった。
 太助は、黒光りする石炭の塊が続々と出てくる夢を何度も見た。

(ああ、朝から晩まで働いてん貰えるもんは少ないし、この仕事では大したことは出来そうにもない)
 と、太助は思い余って、
「お母さん、もう一回炭坑で働かせちもらえんやろか。どげな苦労をしてでん炭坑で一旗あげますき。どうぞお願いします。炭坑で働くのを許しちもらえんやろか」
 と、タネに懇願した。
 タネは、かわいい息子にここまで頼まれると、母としてそれ以上何もいうことができなかった。
 太助は、二十三歳の時、綿打ちをやめ、石炭で一山当てようと再び炭坑に戻った。
 この頃のことであろうか、仕事を終えて坑内から出ようとした時、突然ガラガラと音がして天井が崩れ落ちた。
 太助はとっさに鶴嘴を立て、丸くなって伏せた。
 大きな盤石は鶴嘴に支えられ、少しのすき間ができていた。
 前を歩いていた弟の文兵衛ら四、五人が駈けより、鶴嘴や鍬などでボタを取りのけるが、太助の姿は現れない。
 一時間、二時間と時間ばかりが過ぎていった。
 皆、疲れはて、
(どげな強い人間でも、もう窒息して死んじしもうたにちがいない)
 と、絶望しかけた時、
「うーん、うーん」
 と呻き声がした。
 太助は、生き埋めになってから三時間ばかりして助け出され、九死に一生を得た。


  貝島太助の物語 

               福田 康生 
  第二章
 世は移り明治維新がなった明治二年、新政府は鉱山解放令を発布した。
 それまで黒田藩の仕組法に縛られていた炭坑が、一般の人も自由に操って良いことになった。
 そこで、農村の庄屋や村長、そして町の小金持ちが石炭は儲かるということで飛びつき多くの炭坑主が生まれた。
(何とか一山当てて、お母さんに楽をさせちやりたいが……)
 と、太助も思うが、資金がない。
 そこで、太助のように石炭掘りの技術はあるが資金がない者と、資金はあるが石炭撮りの技術がない者とが結びついて、抗主の依頼を受けて炭脈を探し、人夫を集めて石炭を振らせる頭領という請負師が生まれた。
 太助は、骨身を惜しまず働いたからその手腕を認められ、坑夫頭に使われたり、小さな炭坑の頭領になったりして、炭坑を経営していく上での経験を積んでいった。
 太助が、筑豊t円をあちこちと渡り歩きながら石炭掘りの腕を磨いていたとき、父・永四郎の仲間で、直方の炭坑で頭領をしていた渡邊弥右衛門という人に、
「わしは、今度田川の豊国炭坑に行くことになったとやが、あんたも来んな。あんたに手伝うち欲しいとやが、どうな。来ちやんない。一山当てることが出来るかもしれんばい」と、誘われた。
 弥右衛門が大頭領で、太助は副頭領として豊国炭坑へ行った。
 この時の契約は、石炭百斤(六十キロ)につき口銭二十文(現在の五〇〇円位か)、他に一日につき酒二合半と米四合ということであった。

 太助は、
(さあて、ここでいぼしゆう稼いで資金を貯めち、鉱区の権利を買って炭坑主になっちやろうたい)
 と、野心を燃やしていたが、これではお金が貯まらない。
太助は、金儲けの種を思いついた。
 これより少し前、親類筋のイノと結婚していたが、そのイノを豊国炭坑に呼び寄せ、坑夫らの賄いをさせた。これがあたって、百五十円ばかり貯金ができた。
 太助は、豊国炭坑で稼いだ一五〇円を母に差し出し、母と妻のイノに父・永四郎が亡くなって以来荒れ果てたままであった家を新築し、母とイノに宿屋をやらせた。
 母のタネは、
「こんな立派な家を建てちくれち、お父さんが生き
ちおったらどげ喜んだことやろか」
 と、涙を流して感謝した。
 田川は太助にとってあまり相性のいいところではなかったようである。
 というのも、その頃、田川郡には頭領が二四人いたが、そこへ新参の太助が直方から割りこんで来たので、風当たりが強かったのである。
 豊国炭坑の近所に糸田炭坑ができ、太助が渡邊弥右衛門の下で坑内頭領をしていたときのことである。
 田川郡糸田の四尺坑で頭領の寄り合いがあり、直方から来た新参の太助も呼ばれて出かけた。


 この炭坑の頭領は、大玉五兵衛といって六十を少し越えた田川では名うての古強者であったが、新しく手がけた坑が炭層に着炭せず因っているところであった。
 話が、たまたまそのことになって、皆で現場に見に行った。
 太助は、五兵衛が見込み違いをして、炭層の下を掘っていることに気づいた。
 太助は、五兵衛のあまりの見込み違いについ笑ってしまった。
「きさん、何を笑いよるとか」
 と、太助を睨みつけて五兵衛がいった。
「そりや、可笑しいくさ。五兵衛さん、葦碇したっちやないとな。炭層はもっと上ですたい」
 と、太助は答えたが、日頃から良くは思っていなかった太助の言葉であったから五兵衛にはカチンと頭に来た。
「きさんみたいな若造に、何が分かるとや。わしや、昨日今日頭領になったんじやないぞ」
 この時、太助三十二歳である。若造といわれて、売り言葉に買い言葉である。
「なんちな、あんたは石炭を撮らんで、自分の墓石を掘りよおとやないとな」 
 と、やり返した。
 「きさん、これで炭が出たらどげすっとか」
 と、五兵衛はつかみかからんばかりに、太助に詰め寄った。
 「いいですばい。あんたの好きなようにしちやんない。このまま掘り進んで炭が出たら、炭が出たところで生埋めにしち貰おうたい」
 と、大喧嘩になってしまった。
 五兵衛配下の坑夫らは、
「貝島太助は、黄粉にしち、下がり蜘味にせな気がすまん」 
 と、息巻いた。


  黄粉にするとは、炭坑で不都合を犯した者や無断で炭坑から逃亡した者を裸にして土間に叩き伏せ、引ずり回して見せしめにすることであり、また下がり蜘妹は、土間の天井から逆さ吊りにすることである。
(作者注 例えば、明治初期の官営三池炭坑では、主要な労働力の七五パーセントが囚人労働であったから労働に従事させるにしてもー筋縄ではいかなかった。それゆえに、圧制炭坑では見せしめとして、このような凄惨な暴力で労働者を採炭に従事させていたところもあったようである)
 この場は、仲裁が入ってどうにか収まった。
だが、坑夫らの前でこれほど虚仮にされ、収まらないのは五兵衛である。
 五兵衛は、太助の炭坑主に、
 (貝島太助をすぐに追い出しちもらいまっしょう。そうせな、どげなことが起こるか知れまっせんばい(血の雨が降ることになりますばい)
 と、ねじ込んできた。
 太助もいったんは、渡邊弥右衛門の勧めもあって、
 (五兵衛じいさんに、ちょつと言い過ぎたか)
 と、反省し、酒樽を持ってわびを入れようとしたが、どうにも腹の虫が納まらず、弓削田の坑内頭領を辞めて直方に帰ってきた。 
 









 貝島太助の物語 

                   福田 康生 
  第三章
 直方に帰ると、他人に使われていることの馬鹿馬鹿しさがほとほと身に染み、独立して自分のやりたいようにやろうと決心した。
 太助が鞍手郡新入村で鉱区の株を買い山部炭坑を始め、第一回目の独立をしたのは、太助二十三歳の慶応三年のことであったが、これは資金が枯渇してすぐに失敗した。
 二回目の独立にあたり、太助は、
(こん前の失敗は、金がなくてどげもこげもならんやった。金を貯めてもう一回やっちやろたい。こげなことで挫けてたまるな。.おれは貝島太助ばい。しっかり採炭のことを勉強し、今度炭坑を開く時にや、うまくやっち見せちやろうたいと、自らを叱咤激励し、他の炭坑で人夫をしたり、時に頭領に雇われたりしながら、資金を貯めることに専念していたことは先に述べた。
 それから苦節十六年、太助は三十九歳になった時、一念発起し二回目の独立を果たした。
 妻イノの親戚筋でこれも山師をしていた江田助次郎に出して貰った三百円と自分の資金を出して、
(こん前は失敗したが、この炭坑は必ずいい炭が出るちゃ)
 と見極め、いつもいっていた山部炭坑で再度仕事にかかった。
 太助は、
(これだけ金をかけちおるとやき、今度こそは失敗出来んばい)
 と、念入りに設計し掘進にかかったが、坑内は水が多く水の汲み上げに予想外の費用がかかり、石炭を掘り出す前に資金が枯渇してまたも失敗してしまった。
 しかし、この炭坑が、のちの三菱新入炭坑になるのであるから、太助の目に狂いはなく、その鑑識眼は確かであったといえる。

  さすがに太助も、自信があっただけに、
「当たる当たらんは山師の習いやが、申し訳ないことは江田さんに借りた金が返せんこととお母さんに心配ばっかりかけちおるこったい」
 としみじみ嘆いていたという。
 ここでの失敗から、太助はまた教訓を得た。
 問題は坑内の水である。
 坑内の水さえ片が付けば、炭層を見つけ、石炭を掘り出す腕には自信のある太助であった。捨てる神有れば拾う神ありである。
 そこで、出逢ったのが長崎の人で、
「筑豊には、まだこんな機械はなかろう。一つ筑豊で一山当てよう」 
と、田川郡糸田に蒸気ポンプを持って来た片山逸太という人であった。
 片山逸太は豊後国大分の人で、一八歳の時長崎に勉強に行き、幕府が開設していた製鉄所に入って、機械の知識や技術を身につけ、蒸気機械を筑豊の炭坑に初めて持ち込んだ人であった。
 太助は片山に、
 「蒸気機関を使ってポンプで排水し、採炭するから手伝ってくれないか」 
 という誘いを受けた。
 太助に竪坑を掘り、着炭するまで加勢してくれというのであった。
 太助はいつも排水で失敗し、排水に頭を悩ませていたから、 
(これは渡りに船たい、排水の勉強が出来るかもしれん)
 と、すぐに引き受けた。
 太助は三カ月足らずで竪坑を完成し、着炭した。
 ポンプの据え付けも終わり、いよいよ試運転当日、糸田の小高い丘にはポンプ排水を一目見ようと一万人の人が集まったという。

 片山は、皆が見まもる中をひっきりなしに石炭をくべた。
 だが圧力計の針はぴくりともしない。
 十二月の吹きっさらしの小高い岡に据え付けた蒸気タンクであったから、いくら石炭を炊いても水の温度が上がらず蒸気が出ないのである。
 この試運転場には、のちに太助と共に筑豊の御三家と呼ばれるようになった麻生太吉、安川敬一郎らもいた。
 筑豊の炭鉱主にとって排水が焦眉の問題であったのである。
 この日は蒸気の上がらぬままに日が暮れ、明日もう一度ということになった。
 次の日、片山は夜の明け切れぬ内から蒸気タンクを炊き始めた。 片山は樺一つで、汗みどろになって必死豆炭で蒸気タンクを炊いた。
 夕方近くになってやっと圧力計の針が動き出した。
 高圧の蒸気がポンプに流れ込みピストンが
「どっとん、どっとん」
 と音を立てて動き始め、排水パイプから水が押し出された。
 どっと歓声が上がり、中には賽銭を投げて拝む者もいたという。
 ところが喜びは束の間、ポンプは息が切れたように直ぐに止まってしまいあとはいくら石炭を炊いてもびくとも動かなくなってしまった。一説によると、見物人が投げた賽銭が歯車に挟まって、機械が止まってしまったのだという。
 太助は、しばらく片山逸太と組んで、糸田炭坑で働いていたが、この片山とは炭坑運営で意見が合わず、また直方へ帰ってきた。
(この前の失敗を取り返すにはどうするか)
 太助は二回目の失敗の明くる日から、
(良質の石炭のあるところで、水の汲み上げのたやすいところで、金のかからん鉱区はないもんやろか)
 と、暇を見つけては探しまわり、太助が新たに目をつけたのは、江田助次郎がまだ手をつけずに放っておいた鉱区の一部であった。

 二回目の失敗から一年後の明治九年八月、江田助次郎に頼み、分けてもらった約五百坪を掘り始めたすると、天気が続き、坑内の水も少なく、良質の石炭が出てきた。
 太助が振り初めて間もない明治十年一月、西南の役が勃発した。
 戦争景気で石炭の需要が急増し、また一万斤(六トン)あたりの値段もそれまで六、七円であったものが十七、八円と急騰し、太助は三度目でやっとひと山当てることができたのである。
 これで太助は二千円ほどを懐にした。 こうなると欲が出てくる。
 さらに大きな仕事をしようと、直方の炭鉱経営者・瓜生幾治ら六人と共同で、かねて欲しいと思っていた蒸気機関を備えた水揚機を、長崎のイギリス貿易商から二千九百円をかけて購入した。蒸気機関を備えた水揚機のある炭坑は、筑豊ではこれが嚆矢であった。
(水揚げの機械は手に入ったし、これで本格的に採炭が出来るばい)
 と、太助は勇みつつ操業を開始した。
 ところが、いよいよ仕事を始めるとこの機械は期待したはどの効果がなく、西南戦争も西郷軍の敗北となって終結し、石炭の値段は急落してしまった。これにはさすがの太助も参った。
 明治十二年十月、ついに太助は三度目の倒産をしてしまった。
 六人の出資者も倒産に追い込まれ、そのうちの一人の家では娘が苦界に身を売らねばならない羽目に立ちいたったという。
 さてどうするか、万事休す。
 母のタネと妻イノには宿屋を続けさせ、太助は出稼ぎに出ることになった。

 ところが、渡る世間は鬼ばかりではなかった一家離散というその晩、帆足義方という人が、太助に是非自分の炭坑で働いて貴いたいといってきた。
 帆足義方は播州赤穂生まれの軍人であったが、小倉の鎮台に勤務していた時、筑豊の炭坑を見学し、自分もーつ炭鉱を経営してみようと思っていた。
(経営は人である。信用のできる腕のいい頭領はいないものか)
 と、探していたところに、貝島太助が切貫坑に失敗して直方を去るという話を聞き、駆けつけたのであった。
 人に頼まれたら後へは引かぬ太助であったが、
「わしは切貫坑に失敗し、たくさんの借金を抱えちおりますき、人に使われていては借金を返すことが出来ませんたい」
 と、言って断わったが、帆足は、
「だから、私はあなたに頼むのです。あなたに私の炭坑を任せれば間違いないと思う。あなたの苦しいのは分かるから、利益の二割をあなたに差し上げましょう」
 と、提案した。
 それを聞いて、太助は、
「わがまま申してすんませんでした。ではお言葉どおり、粉骨砕身働かせち貴います」
 といい、帆足義方の下で働くことになった。
 これが、太助の運のつきはじめといってよいであろう。
 帆足義方と出逢うことによって、太助はのちに大成するのである。
 太助はその時、
(こん年になって、人に使われるのは不甲斐ないち思いますが、仕方がなかですたい。捲土重来もう一度一から出直しまっしょ)
 と、江田にいっていたという。
 帆足のもとで働くことになった太助は、
(必ず帆足さんを成功させずにはおかれんたい。自分を信頼しち、任せち貰ちおるとやき、その期待に応えな男が廃る)
 と、帆足義方の為に六年間身を粉にして働いた。

 開抗するにあたり、太助と帆足は植木、飴田、香月などの鉱区を見て廻り、その結果新入が良かろうということになったが、なかなか許可が下りない。そこで次善の策として遠賀郡馬場山村に開抗することにした。
 さらに帆足は馬場山の隣の香月村にも開抗し、帆足の鉱区は植木杉山、香月村南原、香月村養生寺と次々に広がっていった。
 これらは、みな太助の助力のたまものであった。
 しかし、初めの話では、儲けの二割という事であったが、この間石炭の値は安く、太助の取り分はほんの少ししかなく、また一銭も黄えないときもあった。
 太助はそんな時でも、ここが男の見せ所と、
「儲かるときもあれば、ただでも働かないけん時もありまっしょうたい」
 と、太っ腹なところを見せていたという。人の力量の大きさは、苦境にあるときにこそ現れるものだと太助は知っていた。
 だから太助は、悲しいときには笑い、苦しいときにはゆったりとして見せた。
 太助のそんな心の持ち方が、のちに筑豊の石炭王といわれるはどになる次の幸運を招くもとになるのである。
 太助は、帆足の元で働きながら、自らは節約に節約を重ね、再起の道を探った。
(今に見ちおきない。もう一回自分の炭鉱を持つき。わしは貝島太助ばい)
 と、太助は文兵衛、六太郎、そして嘉蔵ら兄弟とともに寝食を忘れ働いた。機械の導入をし、徹底した合理化もし、太助の貯めた金は八千円ほどにもなった。
                          次号に続く
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貝島太助の物語 

                   福田 康生 
  第四章
 明治一七年の冬、太助は帆足の許で稼いだ八千円で、念願叶ってかねて目を付けていた鞍手部宮田村大之浦に二千坪の採掘権を買い入れ、さらに四万三千坪の権利を買い増した。
 この頃炭価が暴落し、どこの炭鉱もやっとかっと仕事を続けているあり様で、破産するところも多く、採掘権は投げ売りの状態であったから、安く買い叩いたのである。
 かつて、母のタネが、泣きの涙で、
「こげなことでは、お前はバクチ打ちになっちしまうが。たのむき石炭掘りから足を洗っち真っとうな仕事をしちおくれ」
 と、炭坑から身を引かせようとしたほどに、バクチに溺れたこともある太助には、勝負勘があった。
 (ここが、勝負のしどころたい。任しちおきない。俺は勝負師たい)
 と、さらに四万三千坪の権利を買い増したのである。
 これが貝島炭砿の隆盛の始まりであった。
 大之浦炭鉱を開くにあたり、太助は弟の文兵衛、姉の婚家にいた六太郎、豊前香春町に養子に行っていた嘉蔵ら、今まで離散していた兄弟を呼び集めた。
 兄弟四人が、
(今度こそは、成功させなすまんぱい)
 と、誓い合い大之浦炭坑での仕事にかかった。
 太助はこの時、新しい手法を取り入れている

 今まで筑豊の炭坑では一人の人間が、採炭から機械の操作、火夫と何でもこなしていたのであるが、太助は機械手、火夫、採炭係と三つに分けて分業とした。
 分業が仕事の能率を上げることが分かったのではじめて試みたのである。
 また、太助は有り金をはたいて、ボイラや捲上機も買い入れた。
 これが太助、第四回目の独立の仕事であった。
 明治一八年、太助は帆足の許を辞し、一族郎党を引き連れて宮田村大之浦に向かった。
 太助を先頭に弟文兵衛、六太郎、嘉蔵、そして太助の手足となって香月炭坑を支えてきた原田勝太郎、阿藤美之助、園田覚助、桑野磯三郎の面々であった。
 明治一八年十一月、太助は大之浦炭坑の最初の竪坑に着手した。
 太助が総務、文兵衛こハ太郎が採炭、裏蔵が売勘定、原田-岡藤が事務、園田が外交、桑野が会計という陣容であった。太助らは坑口の備にほったて小屋を建て、蓮を敷いて寝た。
 明治十九年三月縦坑は深さ一二五尺(約四〇メーター) で三尺層に着炭した。
 明治二十年、太助lはわき目もふらず働いた甲斐があって、.やっと利益が出るようになった。
(さあ、今からますます発展するぞ)
 と、兄弟四人が必死に働いているとき、太助に不幸がみまった。
 弟の文兵衛が過労で倒れ、間もなく亡くなったのである。三十九歳の働き盛りであった。

 文兵衛は、太助が出稼ぎに行っている時にも家にいて幼い弟たちの面倒を見、また太助が事業を興した時にはいつも猪の一番に加勢してくれる助っ人であった。
 太助は金策に駆けずり回ることが多かったので、大之浦坑を開いても石炭の採掘は、ほとんど文兵衛に任されていた。
 炭価の値下がりを出炭量で補おうと、文兵衛は坑道で寝起きすることも多く、無理が重なって発病しあっという間に亡くなってしまったのである。まだ仕事は、始まったばかりである。太助にとって、類みの弟を失ってしまったのは、日の前が真っ暗になるような出来事であった。
「文兵衛よ、今しばらく生きていてくれたら、お前の好きなようにさせちやれたとに。今お前に死なれち、どげもこげもならんが……」
 と、太助は嘆き悲しんでいたという。
 その上に、嘉蔵が失明してしまった。踏んだり蹴ったりである。
 しかし、嘉蔵は、
(目は見えんばってん、心の目で仕事をします)
 と、その後も太助の片腕となって貝島炭坑を支え、失明の身で植木炭坑、香月炭坑などの坑長を勤めた。
 炭価の暴落に対しては、太助は何とか踏ん張り、あくまで強気に弟たちと炭坑を拡張していった。
 明治一〇年代の半ばまでは鉱区といえばほとんどが五〇〇坪から一〇〇〇坪といった小さなものであったが、
 (このままでは、濫掘による筑豊炭田の荒廃は避けられない)
 と、事態を憂え、政府は福岡県と相談して小鉱区を廃止して大鉱区制をとることにした。
 福岡県は明治二十一年一月福岡県布告を出して、今までの小鉱区の権利を消滅させて、筑豊五郡を二十一の大鉱区に再分割した。

 これを選定鉱区といい、一鉱区の広さは一九万坪から六十一万坪という前に比べると桁違いのものになった。
 この広さになると、相当な資本がないと借区はできない。
 選定鉱区を巡って激しい争奪戦がはじまり、太助もこの争奪戦に参加して炭坑を拡張していったのである。
 小資本の坑主は次々に脱落していき、かわって中央から三井、三菱、住友、古河など、巨大資本が進出し地元の有力坑主との間で鎬をけずった。
 その結果、主なものとしては、 直方の許斐鷹介が、下境。中間第二・古賀の三鉱区七七万坪。
 貝島太助は宮田町の大隈鉱区(四五万坪)および香月新三部と共同で鶴田鉱区(二三万坪、後の菅牟田炭坑)。
 松本薄・安川敬一郎のコンビが頴田町の勢田、穂波都の相田など三鉱区八九万坪。
 さらに、福岡の玄洋社社長平岡浩太郎が赤池鉱区など一二五万坪。
 飯塚の麻生太吉は綱脇・忠隈鉱区など八九万坪を獲得した。
 また中央の大資本としては、三井は渋沢栄一と益田孝が借区の出願をしたが、うまくいかないので、中央と地方の共同出資の田川採炭会社を設立し、その会社に鉱区を取得させ、後にその会社を買収することによって田川に二五一万坪の鉱区を取得した。
 太助は、大之浦一坑、大之浦二坑、さらに菅牟田坑と手を広げ、その鉱区も六十九万坪に膨らんだが内実は火の車、借金に次ぐ借金でここまできたのである。
 太助は、身をくだき骨をくだいて奮闘したが、明治二十三年頃には、またもや行きづまるかという瀬戸際に追いつめられた。
 というのも、太助は十七人から金を借り集めていたのであるが、その利息は、月に一割五分から三割という高利であった。

  いよいよ返済の期日も迫るが、太助には手の施しようもなく、成り行きに任せるはかなかった。
 しかし、今自分が音を上げてしまうと、従業員や坑夫らはたちまちその日から喰うに困る。
 この時太助は、
 「自分一人の身であれば、これはどのことは何でもないが、今の自分は従業員や坑夫を抱えて、自分の身体は自分のものではないのがつらい」
 と、弟の六太郎にいっていたという。
 さて、どうするか。

 太助の窮状に目を付けたのは、三菱であった。三菱は三池炭坑を三井に取られたので何とか筑豊で三井に勝ちたいと思っていた。
 太助が買い増した炭坑に菅牟田炭坑があった。
 この炭坑は有望だというのであちこちから欲しがられていた。
 三菱の意を受けたある人から、
「どげですか、菅牟田炭坑を三菱に売っち、借金を減らしたら・・・・・・」
 と、いわれた。
 太助は、
「ご親切は有り難いが、弟たちも加勢してくれちおりますし、せっかく手に入れたもんを鶴嘴一つおろさず人事に渡すのも不甲斐ないち思いますき、売ることは出来まっせんたい」
 と、借金返済に何かあてがあるわけでもなかったが、きっぱりと断った。
 あくまで強気の太助であったが、炭価が上がらないことには、進むことも退くこともできない窮地に立ちいたっていた。
                               つづく

貝島太助の物語 

                   福田 康生
第五章ノ一

 そんな状態で太助が苦悶していた時、思いがけない助け船が現れた。
 前の農商務大臣・井上馨が救いの神であった。
 井上肇は、長州藩出身で、伊藤博文らとともに勤王討幕睾動で活躍し、明治新政府では工部卿、外務卿などを歴任し、さらに第一次伊藤内閣では外務大臣、次の内閣では農商務大臣を務め毛利家や三井財閥の後ろ盾でもあり、政界・財界に大きな発言力を持った人物であった。
 井上馨は、明治二十四年、農商務大臣を辞めて九州に遊びに来た。
 まず、親類筋の行橋の柏木家を訪れ、そして当主の柏木勘八郎を伴って耶馬渓に遊び、そのまま太宰府に向かった。
 人力車の旅であった。途中、田川郡の金田で毛利家のために買収交渉を進めていた金田炭坑を視察し、英彦山川を下って直方にさしかかると、御殿と見まがうような大きな家がある。
 道案内の柏木に、
「こんな田舎に、こんな邸宅を建てたのは誰であろう」
 と、井上が、柏木に尋ねた。
「炭坑をやっている貝島太助という者の家です」
 と、答えた。柏木はさらに言葉を継いで、
「見島は貧しい家に生まれ、幼い頃から炭坑で働きましたが、志を立てて幾度の失敗にもめげず炭坑を持ち、一鉱区を広げ、今

では千余の坑夫を使い、筑豊でも有数の鉱業家と目されている男です」
 と、太助のことを誉めた。
 柏木勘八郎は、長州の生まれで、叔父にあたる井上の世話で行橋の素封家柏木家の養子に入っていたのであるが、柏木も鉱業をはじめ色々な事業に手を出していたから、太助の資金繰りもまた太助が金策に苦労しているのも知っていた。
 柏木は親切心から、
 (貝島太助を井上に紹介すれば、力になって貰えるかも知れない)
 と思い、太助を持ち上げたのであった。
 井上は、柏木の話を聞いて太助という人物に興味を持ち、
 (では、その貝島太助という男に、ちょっと会って見ようか)
 と、柏木にいった。
 さっそく、柏木が太助の許へ走ると、太助の家では長男栄三郎の結婚披露宴が行われていて親類縁者でごたがえしていた。太助ば、粗相があってはと思ったが、断るわけにもいかない。
 柏木に事情を話してともかく上がって貰うことにした。
 太助の屋敷は、近くに遠賀川の清流を配し遠くに福智山を借景としたものであったから、三階からの眺めは素晴らしいものがあったという。
 酒肴が運ばれ、井上はその眺めともてなしに上機嫌で、
「どうですか貝島君、炭坑の景気は」
 と、聞いてぐれた。
 太助は、問われるままに、借金についても率直に話し現状を打ち明けた。

 井上は、太助の未熟な態度、包み隠すことのない率直な語り口に、好意を持ったようであった。
 太助邸を辞するにあたり、井上は、「貝島君、いちど東京に出てきなさい。相談に乗ろう」
 と、いってくれた。
 井上馨の一行は、直方から川沿いに下って遠賀川駅から九州鉄道に東って太宰府に向かったが、柏木は車中、さらに詳しく太助の人となり、その仕事ぶりを井上に話した。
「見所のある男のようだ。何とか援助して.やりたいが、とにかく一度上京するようにいっておきなさい」
 と、柏木に告げた。
 井上は、はじめて会った太助が、ことのほかに気に入った。
 というのも、井上は幕末の動乱から修羅場をくぐり、命がけで仕事をする多くの本物の男達を見てきたから流石に男を見る目があった。
 井上が東京に帰ったあと、柏木は車中での井上との話しの内容を太助に伝えた。
「どうだ、おれに任せろ。上京して井上伯に相談に乗って貰おうじやないか」
 と、説得するが、太助は、
「有難う。しかし、この話はもう少し待っちもらいたい」
 といって、直ぐには話に乗らなかった。
 柏木は、その後も何度か、
「金策のことは置くとしても、井上伯も、一度出てこいと言って下さるのだから、挨拶だけでも一度行った方がいいんじゃないか」
 と、太助に上京を促すが、太助はうんとはいわない。
「好意は有り難いが、自分でやれる所までやっちみようち思ちおる。今しばらく待っちくれ」
 と、金は喉から辛が出るほど欲しいが太助には、

 (今上京すれば「全面的に井上閣下に頼っちしまうことになる。生き延びることはできても、今まで歯を食いしばっち頑張っちきたことが全てわやになる。今まで自分を支えち来ちくれた弟や従者員のためにもここは何としてでん踏ん張らな……)
 と、思われてならないのであった。
 柏木から文書でも送ったのであろうか、間もなく太助のところに、
(貝島炭坑及び借区の明細書と図面を送れ。それを見てからどうしたらよいか相談に乗ろう)
 という、井上の書面が届いた。
 さすがの太助も今度は無視するわけにはいかない?直ぐに関係書類を作って送付した。井上は動きだした。
(たいていの男は自分が来いといえば、すぐに尻尾を振ってくるものだが、貝島太助は違う。気に入った。貝島のために一肌脱いでやろう)
 と、惚れ込んだのである。
 明治二十四年の夏、柏木から、
(井上伯が毛利家の家令梅村信と一緒に下関に来ておられる。至急出向くように)
 という、知らせが届いた。
 太助は、下関に駆けつけ、井上のこれまでの配慮に深々と頭を下げた。
 井上は柏村に、
「この仁が、前々からお話していた貝島太助です」
 と、太助を紹介した。
 さっそく、下関の海の幸を囲んで宴が始まった。

 井上は、太助との再会に上機嫌であった。翌日、井上は柏村、柏木をつれて毛利家のために買収した金田炭坑を視察し、その足で太助の大之浦炭坑を訪ねた。一坑、二坑、菅牟田坑を見て回った。
 夜は行橋の柏木邸泊まりであった。太助も同行した。
 宴半ばで、話が今日見た太助の大之浦炭坑の話になった。
 柏木が、
「今がチャンスだ。金策のことをお願いしろ」
 と、太助に耳打ちしたが太助がいい渋るので、溜まりかねた柏木が、
「貝島の炭坑は如何でしたか。ご援助願えませんか」
 と、いった。井上もその気は充分にあったが、 「負債の総額はどれくらいだ」
 と、太助に尋ねた。
 「八万円ほどでございます」
 と、太助が答えると、井上は経営の見通しについて、次々と鋭い質問を浴びせた。
 太助はその一つ一つに包み隠すことなく率直に答えると、井上は太助の目をじっと見つめ、
「よし、分かった。ぼくが何とか骨を折ってみよう」
 と、負債の整理を請け合った。
 太助が、
 「よろしくお願いします」
 と、頼むと話はそこで打ち切りとなり、あとは何事もなかったように、宴を続け、井上と太助は談笑していた。
 翌日、帰京にあたって、井上は炭坑及び鉱区の詳細な状況、負債の明細書、資産の一覧表、今後の事業計画等を至急送るように言い残して東京へ帰った。

 井上は毛利家から金を引き出し、太助の炭坑の石炭を三井物産に売らせることなどを考えていた。
 関係書類を送って一ケ月が経った。
 井上からは何の音沙汰もなく時が過ぎたが、その間にも炭価はじりじりと下がり、それに比例して負債は増えていった。
 その上長雨が続き、川の水が溢れ、川船での石炭輸送も止まっていた。
 ニケ月が経ったが、井上からは何の連絡もない。井上の返事が遅れていたのは、金策の話が進まなかったからであった。
 井上は、まず井上とともに毛利家の財産を管理していた三井物産の益田孝に相談した。
 ところが、その益田孝は、
(炭鉱経営埠炭価も安定せず、極めて危険な事業である。大事な毛利家の財産をそんなも町に使うわけにはゆかない)
 と猛烈に反対していたのである。
 井上が、いくら貝島太助の人物を説明しても頑として毛利家の資金を使うことを認めない。
 そして、挙げ句には、
「聡明なる閣下が、一山師に援助を与えんとするとは何たることでありますか」 
 と、井上を非難した。
 井上も負けずに、
「一度、貝島太助に逢うてみよ。どんな人物か君にも分かるはずだ」 と、いい返した。
 激論の末、
「では一度会ってみよう」 
 と、いうことになった。
 連絡を受けた太助は、柏木と一緒に上京し、井上の仲介で益田と毛利家の家令柏村信に会った。

 太助は、益田孝に炭坑の現況を説明し、融資を依頼した。   だが、益田は容易に納得しなかった。
 「八万円の負債というが、それだけ融資すれば後は大丈夫なのか。単なる一時しのぎに過ぎないのではないか」
 と、突っ込んできた。
 そういわれると、太助には何も答えられなかった八万円あれぼ、今の金主に対する負債はなくなるが、それは肩代わりして貰ったに過ぎない。
 炭価が上がらないことにはどうにもならないのである。
、話は行き詰まり、一同は黙り込んでしまった。
 「どうだ、益田君、一度貝島の炭坑を見てからということにしては」
 と、井上が助け船を出した。
 井上は、幕末以来の周旋家である。
 交渉が行き詰まったときの扱いをよく心得ていた。
 これには、益田等も反対できない。
 柏村は、毛利家が所有している金田炭坑の技師・山縣宗一に命じて、太助の炭坑を調査し、その報告を待って話を再開しようということになった。
 山縣技師から、貝島炭坑の調査報告書が送られてきた。
 貝島炭坑は立地条件も、鉱区の評価額もなかなかのものであった。
 会談が再開され、その結果、毛利家から八万円を融資することが決まった。・
 期間は三年、金利は年一割一分。
 債務中は貝島炭坑の石炭の販売は三井物産に委託すること。
 また万一返済できない場合に毛利家の名前が出ては困るので債権者は三井物産副社長木村正幹名義とすることなどが条件であった。

 これで、太助は一息つくことができた。
 さっそく、急ぎの負債だけを返し残りで新たに穂波郡吉隈に四〇万坪の鉱区を買収し、強気の賭に出た。
 しかし、明治二四年の秋から冬にかけても炭価の下落は続いた。
 暮れになると、太助は新たに数万円の負債を抱え込んでいた。
 とりあえず一万五、六千円なければ坑夫に払う金もなく、年が越せなかった。
 太助は、益田にもう一度頭を下げて、石炭代金の前借りをしようと上京した。
                       


















貝島太助の物語 

                   福田 康生
  第五章ノ二

 まず井上に会うと、井上の態度は好意的であったが、益田がいっていた通りになったので、厳しい話をした。
「ここで一万数千円を借りても焼け石に水であろう。もう一度毛利家に話して借りてやるから、高利の負債を一掃して根本的な再建を図れ。ただし、全ての鉱区を担保として差し出すこと。貝島太助は一抗夫となって働くこと。直方の貝島邸を出て山で暮らすこと」
 といって、三条件を示した。
 はじめの一つは、毛利家への配慮。
 次の二つは、太助に、
(初心に返って一から出直せ)
 と、いう井上の親心であった。
 井上は毛利家の了解は取り付けたが、益田がうんといわなかった。
「とんでもない話です。先の融資からまだ数カ月しか経っていないのに、もう借金の申し込みです。厚かましいにも程がある。炭価の回復がない限りこれ以上びた一文出せません」
 と、猛反対した。
 正月が近くなり、太助は焦った。
 いくらかで持って帰らないと坑夫らは年が越せない。
 太助は、

「一万でもいいから、何とかならないでしょうか」
 と、井上に頼み込むと、井上は、
「もう一度、益田に話してみよう。それで駄目なら、僕の金を都合しようし と、言ってくれた。
 井上と太助が三井物産に赴くと、益田は時機を待っていたように、
「よし、金は出そう。その代わりに君の鉱区の名義を全部書き換えさせて貰うがそれでいいかね」
 と、条件を出してきた。
 この頃、太助の鉱区は菅牟田、大之浦、吉隈を併せると百万坪を越えていた。
 益田は、
(万一の場合はこれを押さえればいい。十数万円融資しても、悪い取引ではない)
 と、計算していた。
 太助は、
「それは、即答はできません。私を信頼して金利も取らずに待ってくれている出資者がいるのです.彼らに相談もしない.で、名義の書き換えをしたらその人達に顔向けができません」
 と、答えた。
 が、井上も名義変更はやむを得まいという意見であった。   
(取りあえず一万五千円だけは出そう、後は帰郷して出資者に相談してこい)
 と、いうことになり、坑夫達の年越しの一万五千円だけを持って、太助は大之浦に帰ってきたっ
 大之浦に帰ると直ぐ、太助は出資者を集め、これまでの経過を話し

 「今後のことは皆さんの言われるとおりにしたい」
 と、いった。
 名義の変更は、鉱区の全面譲渡、三井炭坑になること意味している。
(せっかくここまで来て、三井の軍門に下るのか。では、貝島炭坑を解散して鉱区を処分して金を作るか。しかし、いつ単価も上昇するかも知れない)
 みんなの思案は、堂々巡りをするばかりであった。
 どう考えても他に方法はなかった。結局、太助らは名義変更に同意することになった。
 太助が受け入れた毛利家の条件は、
(融資切金額は十三万円とする、債権者の名義は三井物産副社長木村正幹、貝島太助の身分は木村の使用人とし、三井物産下関支店と金田炭坑技師長山縣の指導・監督に服すること、今後の融資は一切認めない、事業に関係を及ぼす取引、契約、借入は一切しないこと、以上に違約した時は解雇されても意義を申し立てない)
 と、いうもので、十tニ万円と引き換えに数十万円の財産を取られたのも同然であった。ただ、一つの救いは、明治三〇年五月未までに元利を返済すれば、鉱区その他の名義は元に戻すという約束であった。
 太助は、十三万円の融資と引き換えに、持っている全てを差し出し、身分も三井物産の一使用人ということになった。
 そして井上との約束通り、直方の御殿を引き払い、家族とともに大之浦炭坑の仮住まいに移った。
 また、日常の生活も、経営もさらに合理化し、炭価値上がりの時を待った。
 しかし、明治二十五年になっても炭価の下落は止まらない。

 その上、三井と三菱の単価引き下げ競争が、炭価下落に拍車をかけていた。
 ところが、明治二六年に入ると、炭価が上がりはじめた。
 経営の前途にやっと光明が指しはじめた時にまたもや不幸が襲った。
 苦労、心配をかけっぱなしの母タネが病に倒れたのである。
 太助は、井上に許しを得て、六年前、
(お母さんをびっくりさせちやろう)
 と建てた、直方御館山の御殿に母を移した。
 母の病状は日増しに悪くなっていった。
 太助は、昼は炭坑に心血を注ぎ、夜は寝ずの看病と寝食も忘れるほどであった。
 しかし、薬石の効果もなくタネは帰らぬ人となった。
 太助にとって母の死は、
(事業も大きくなったし、やっとお母さんを安心させることが出来る)
 と、思っていた矢先の死であり、食事も喉を通らぬほどの嘆きようであったという。
 太助は、父母の恩に報い霊を慰めるためにと、明治三十二年十月、六千円をかけて仏壇を作り、京都の本願寺から大僧正をはじめ」九州各地の僧侶六〇〇人を招いて法要を営んだ。
 明治二七年になると、炭価がさらに上がり始めた。
 朝鮮の支配権を巡って、日本と清国の雲行きが怪しくなり、
 (清国と一戦交えなければならぬかも知れぬ。日本と清国の戦争が始まるぞ)
 と、陸軍も海軍も石炭の買い付けに走ったのである。

 炭坑の景気は急速に回復しはじめた。
 不景気の中でも強気に炭坑を拡張し続けた太助の賭に、吉の目が出はじめた。
 太助は、母が救ってくれたと思った。
 明治二十七年八月ついに日本と清国の間に戦端が開かれ、海運会社も軍需物資の輸送に忙しくなり.石炭が飛ぶように売れた。
 二五年まで一万斤(六トン)が一〇円を切っていたのが、二七年には二十四円に急騰した。
 二十八年には、大之浦五尺炭には、三五円から四〇円の値が付いた。一日の儲けが、四、五千円という日もあったという。
 この儲けで、太助は元利で二十数万円になっていた三井の借金を残らず返済し、鉱区の権利は再び太助に書き換えられた。
 貝島炭坑の乗っ取りに失敗した三井の大番頭益田孝は、日清戦争による炭価暴騰という太助の幸運に、
 (もう少しで貝島炭鉱が手に入りそうであったのに、なんと運のいい男であろう)
 と、ほぞをかんだ。
 太助は、さらに、ここぞとばかりに強気に打って出た。
 植木炭坑を買収して瑞穂炭坑と改称し、坑長には

失明していた嘉歳を送り、また宮田村桐野に斜坑を開削し、坑長には六太郎を配した。
 この頃から大之浦炭坑が第一大之浦、菅牟田炭坑が第二大之浦、桐野炭坑が第三大之浦、瑞穂炭坑が第四大之浦と呼ばれるようになった。
 そして、明治二十九年には、水害で水没していた帆足義方の斯波炭坑を買収してこれを大辻第二坑として再生させ、遠賀郡香月村の旧大辻炭坑五六万坪を買収して大辻第一抗とした。
 さらに、明治二十九年から三十二年にかけて、嘉穂郡大分村の鉱区二百万坪、宗像郡池田村の十五万坪、嘉穂郡吉隈の百十四万坪と買いまくった。
 県外では、明治三十二年に佐賀県小城郡の柚木原炭坑およびその周辺の鉱区合わせて二四八万坪を貫収し、また三三年には佐賀県北波多鉱区二二四万坪および岩屋鉱区九五万坪を手に入れた。
 これにより、明治三五年には、貝島炭坑の出炭量は九十方トンに達し、年間純利益も八〇万円を超えるに至った。
 また明治三七年(一九〇四年)には、日露戦争が起こるが、太助は日露戦争の戦争景気でも波に乗りかくして太助はついに金と成ったのである。

 太助が金と成り、貝島炭坑の基礎が成ったところで、この物語も終わりに致したいと思うが、今ひとつ書き加えねばならないことは、貝島私学校の設立と貝島家の家憲のことであろう。
 貝島太助は字が読めなかった。
 八、九歳の頃から坑内に下がって働き、家計を支えねばならなかった太助には、学校どころではなかったのである

  字が読めず、悔しい思いをたびたび経験した太助は、
(これからの炭坑の子供は、学校に行かせないけん。少なくとも貝島炭坑の子供らだけでも学校にいかせちやりたい)
 と、大之浦炭坑をはじめてすぐに私学校を開設した。
 まず、明治二十一年、私立大之浦小学校簡易科を作った。
 校舎は、長さ五間、幅二間の小屋で、生徒数は男十人、女五人で先生は一人という小さな小学校であった。
 これは、日本の炭坑では最初の小学校である。
 この小学校では、太助は生徒に学用品を買い与えたばかりでなく、出席すれば一日五銭(五銭の金で、当時は米が一升買えた)を与えて、出席を促した。
 というのも、新政府は明治五年に学制を敷き、初等教育を奨励していたが、多くの親は子供を家内の労働力としてしか見ていなかったから、太助は、
(学校に通えば、きっといいことがあるぞ)
 と、一日五銭を支給したのである。
 この小学校は、大之浦小学校へと発展し、明治の末頃には、千人を超える小学校になった。
 その後、貝島炭坑では、明治三十三年に私立満之浦小学校、大正四年には私立岩屋尋常小学校、そして大正五年に貝島菅牟田尋常小学校、また大正七年には私立大辻尋常小学校と次々に小学校を開設した。
 太助はまた、育英制度を設け、大正六年には、従業員の子弟から選抜して中等学校および専門学校に進学させ、卒業後貝島炭鉱の事業に従事させることを目的とした貝島家修業給費生徒内規なども作った

 また、大正十三年には十万円の基金で貝島育英会が創立され、日本がまだ貧しい時代であったから、向学心に燃える多くの従業員子弟がこの恩恵に与った。
 貝島炭鉱の基礎を固めた太助は、明治四十二年、一族が長く繁栄するようにと侯爵井上馨に相談して家憲を制定した。
 家憲の内容は公表されていないが、貝島家の家憲の草案が宮田町の石炭記念館に残っている。
 前書きとして
 「貝島家、素より微賤に起こり、数々困厄を経て百折不撓遂に今日の隆盛を致したるもの、蓋し太助の苦心百端、備さに艱難を嘗め、造次(束の間)てん沛(つまずき倒れること)一家の興隆をこれ企て、而して其弟某々克く之を補佐し協力同心一族挙つて奮勉事に當りたると、侯爵井上馨殿へ輿へられたる内外援助の効に職由せずんばあらざるなり。今や財産の基礎漸く成るに當り、一族子弟家運の此に至れる所以を忘却し、驕奢安逸に流れ、家聾を失墜するに至る事なきを保せず。是に於いてか、其々相諮り、侯爵井上馨殿に懇情し、厳重なる家法を制定し、財産の鞏固と一族の繁栄とを期し、永く之を以て子孫家を治るの規矩と為さんとす」
 と、家憲が制定された経緯が書いてある。
 この家憲の中に、
「一族は一族会の許可なく、一族共同事業以外の事業を経営すること」
 を禁じ、また
「他の会社の株主となり又は一族共同事業以外の事業に出資すること」
 も禁止した一項がある。
 この規定が、石炭の斜陽化をいわれても、見島炭

  鉱の手足を縛っていたから、石炭以外の事業に手が出せず、「筑豊の御三家」 といわれた貝島炭鉱は、安川製作所・黒崎窯業や麻生セメントのように生き残ることができなかったのである。思えば、明治一八年、太助四一才の時、鞍手郡上大隈村字代ノ浦で、大之浦竪坑の開坑に着手したのが、貝島炭砿の始まりであつた。
 その後、明治四〇年頃までに宮田村大字磯光字太田、梅ノ木、野入、榎木、宮田村大字宮田字杉板、上大隈、笠松村大字四郎丸字満ノ浦、笠松村大字長井鶴字前田、遠賀郡香月村大字香月、佐賀県厳木村字本山に炭坑を広め、大正一三年に菅牟田、桐野、満之浦の三鉱山を一括して大之浦炭鉱と称し、また宮田以外では大辻炭鉱,岩屋炭鉱と貝島炭鉱は拡張していった。
 昭和二八年には 「新菅牟田坑」が開坑したりし、戦後復興の一時的好景気があったものの、石炭から石油へのエネルギー転換により、昭和三八年の合理化では、最盛期に一万人ほどいた社員も、二六〇四人となった。そして、昭和五一年八月、明治一八年から九一年間続いた石炭採掘も終止符を打ち、かつて栄華を誇った貝島炭坑もここに消滅したのである。
 栄枯盛衰は世の習いというが、今はただ貝島炭坑から育っていった何千何万の諸氏の幸多かれと願うばかりである。






                         「貝島太助の物語」完